数字の先生の話

私が言葉を好きになったのは、小さな時からのたくさんの人の影響によるものと
もともとの資質だったのかもしれない。
言葉に対して、数字という概念

この数字の苦手意識は、大学時代に入った後は非常に厄介なことになった。

数字が苦手な理由

『正解が一つしかない、だからシンプルで簡単でしょ』という人もいる。
逆に、この一つを見つけられなかったらどうするの?という恐さ。

そして、
勉強時間をしゃべって過ごす。
  ↓
たくさんの問題を解きパターンや公式を覚えるための
十分な時間を割かない(そもそも勉強時間が足りない)
  ↓
問題が解けないまま
  ↓
問題が解けないからつまらない
  ↓
問題が解けないから苦しい
  ↓
算数が嫌い

と悪循環の連続

そのままでその問題を置き去りに生きてきてしまった私にとって、

Accounting(簿記)の授業は地獄のようなものだった。

が、ラッキーにも私のクラスには
牧がいた。

牧は、私の同い年の男の子。

25年ほど前の事だから笑ってはいけないのだが、

牧は、なぜだかいつもウエストポーチをしていた。

携帯のない時代、
あの中には、

牧にとって大切な?何が入っていたのだろう?

こんな風に話が横道にそれてばかりなのだが、

Accountingのクラス。

牧は、アメリカ人の理解スピードをはるかに超えて日本人でありながら
クラスの一番だった。

その牧を味方につけた私。

牧の授業後は、私の時間として引っ張られる事となる。

牧は、教えるのが上手。

彼が私に教えてくれたのは肝となる部分だけ。

すでに遅れを取っている私に、多くの事を言ったって、頭に入るわけなはい。

とにかく、単位を取るためのピンポイントレッスンをくれた。

本人はそう思っていないだろうが、
私にとっては、牧が近くに座っているかどうかが
クラスの時間の質を上げたり下げたりした。

いまだに思う。
あの時、どうやって試験をクリアしたのだろうか?

でもこうやって今卒業している事を見ると、
何とかなったのだろう。

牧という人間は、奢る・驕ることのない自然な男だった。

牧は何等かの理由で日本に早めに帰っていったのだが、

後々分かったことだが
大きな社長のご子息様だった。

それを知ったのは、日本に帰国してからもずいぶん後の話

日本の友人があるリゾートに行こうと誘ってくれて時

たまたまそのリゾートが、彼の会社であったことに
ぶったまげた。

リゾートは愛知にあるのではなく長野県にもある。

そしてリゾート開発だけでない様々な事業を取り組んでいた。

今は、ベトナムへの新規事業で世界を飛び回っている。

私の数字の先生は、日本に帰ってからは
経営者としての数字の先生と変わる。

彼が日本に帰ってきて最初にやったことは、
やはり数字を見直すことだった言っていた。

数字は嘘がない。
出ているものがすべての結果である。

無駄を省く
それをするには、必要と必要じゃないを見分けなくてはならない。

そうなんだ。

彼は、出会った18歳の時からこの考え方が備わっていたのだ。

数字だけでは人は動けない。
それでも、数字を物差しにするのは
1は誰にとっても1であり
100は誰にとっても100であるという
共通の記号であるから、

時に、大いに感情に動きやすい私にとって
牧の存在は常に私の軸をもとに戻す貴重な存在である。
数字を使って軸を戻す方法を教えてくれた。

数字が得意な彼であるが、シビアな一面だけでは全くない。

優子ちゃんが日本に帰国するタイミングで
同窓会を開催する(三人のね)

その時は常に牧のおもてないからスタートして
思う存分甘やかしてもらう女子二人。

実は、牧は私の結婚式に2回主席している。

一度目は、日本

そして二度目は、ハワイ。

牧が私にくれた最高の褒め言葉。

『おまえは大した奴だ、お前のために世界からお祝いに
かけつけるやつがこんなにいるなんて・・・。』

この言葉は私の宝物。

何かあった時に、かけつけてあげたくなる私であれますように!

そんな私であり続けられますように!

私は今日も人とどう過ごすのか?

だから
を大切に、大切に!

牧、久しぶりに錦で会おうか?

この記事を書いた人

アバター画像

喜稀今日子

3人の女の子の母親です。葬儀社の経営の仕事をしながら子育てと地域活動に参加しています。忙しといいながら、プライベートでの新しいことへのチャレンジは必須です。
新しい発見を発信していけたらいいです。
喜稀 今日子(きき きょうこ)

詳しくはこちらにどうぞ。