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‘Getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me’
最近私は、今の自分になる前の自分を思い出して、(今も自分は自分なのだが)恥ずかしく思うことがある。
私は、若くして実力も人格もないのに、社長という肩書をもらった。
特別有頂天になった記憶もないが、社長就任となった翌日から、ありとあらゆる方面の方々から、二本立ち、から5本立ちの胡蝶蘭が送られてきて、狭い事務所を陣取ったものだから、私自身は昨日までの私と中身は何も変わってないと不思議な違和感を覚えたのも記憶している。
しかし、その違和感を忘れることは本当に簡単な事で、私はその肩書に見合うだろうという思い込みのもと権力を振りかざした。
会社の未来を考えれば、、という、体裁のもと、自分の意見を強く押し通し、強い口調で社員の皆さんに向かった。
心の中には、『なめられたらダメよ!』そんな思いもあっただろう。えらく去勢を張っていたと思う。
それが故、傷つけてしまったこともあるだろう。
自信を無くすように追い込んだこともあるだろう。
思い出すだけで、当時の私自身と友達になることはできないな?と恥ずかしながらそう思う。
しかし、一番怖いことは、そのような自分で生きていたのに、当時は自分が正義であり、どんなことも正当化していたという事である。
ある日、私のもとに一枚の内容証明書が送られてきた。中身を見ると、もといた社員さんからのあることに関する訴えだった。
かなり焦ったと思う。これから向かわなくてはいけないことは、これまでの人生で一度も経験をしていないものだったからだろう。
それだけじゃなく、労働審判という、被告と原告というようなイメージのテレビの世界が実際の自分に起こっているというパニックだ。
労働審判 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%AF%A9%E5%88%A4
誰だって想像のつかない世界に向かうのは怖いはずだ。
しかし、どんなに若くてもどんなに実力が備わっていなくても、代表という肩書を持っていれば起こった事柄に関しては向き合い対応し、責任を取る必要がある。
しばらくの間は、このことで頭がいっぱいで、心がいつもどこかに置き去りになっていたような気がする。
そして、その事柄に追い打ちをかけるように、相手の証言を優位に運ぶため、私の右腕として良い関係にあった(自分だけがそう思っていたという事なのだろうが)社員さんが相手側についた。
私は、これまで何をやっていたのだろう。そう思い、自分を責め続けた。
その当時、相手に対してや、その助けとなった社員さんを恨まなかったか?と聞かれれば嘘になるが、相手を恨むというよりは、毎日神様に『いったい私が何をしましたか?』と聞いていた、その思いの方が強かったように思う。
つづく・・・。