子供のころ、特に女の子は友達との関係が何より大切だったことを覚えている。その友達と共有するすべての流行り事や、起こったことの報告、好きな男子の話などなど・・・。
だから、新年度クラスが離れたりなんかすると『あ~おわったな』みたいなことにもなりかねなかった。
そういう私も、小学校まではこの感覚が強く、交換日記(懐かしい)をしたり、ノートの切れ端のような手紙を小さく複雑に折りたたんで渡したりと、毎日会えるメンバーであっても更に繋がりたいという気持ちがものすごく強かったと思う。
実は、長女はマレーシアで転校をしている。
最初、マレーシアに転校した後は楽しくて仕方がその気持ちは長く続かなかった。やがて繰り広げられる寮内での人間関係に苦しみ、疲れ、絶望しながら彼女は居場所を見つけ、親友と呼べる友とも出会えたやっと安定した時期の転校となった。
当初、転校をしたかったのは娘。が、転校先を見つけ時には、嫌だった寮の環境にも慣れていて転校をすることは、せっかく出会えた親友と離れ離れになってしまうこと。きっと寂しさを通り超えて苦しかっただろう。そして、私を恨んだだろう。
では、なぜ転校したか?はそのうち話したい!
新しいところにいって友達ができるのだろうか?また、0から、人間関係構築はじまるの、すごいしんどいな?!そう思ったに違いない。
この転校ドラマの時期は、彼女は本当によく泣いた。泣いているのは電話の向こうの彼女。親として寄り添えたとしても、言葉と気持ちのみ。決して体温を温めることはできなかった。
私も本当につらかった。でも、彼女の未来を思えば、それがその時のベストだと信じていたから、慎重に、それでも強い信念のもと事をすすめた。
しばらくの間は、転校前の学校に意識があり、親友との関係も距離が邪魔することなくチャットやメッセンジャーで深く、深くつながっていたと思う。
今はどうか、彼女との会話時間はもちろん極端に減っただろうが、心の繋がりと深さそのものは変わっていないと思う。
これは、私の経験談である。愛知県民の私が最初に就職した場所は、鳥取県米子市。
そこに知り合いがいたわけではない。それこそ、職場も日常生活も全く慣れない場所でのスタートだった。私の少し後に入ってきた同僚。米子時代には、仕事以外でもたくさんの話を分かち合い、プライベートも共有した。
そして、愛知に戻ってきて25年以上がたつ今。私が新しい発見をした興奮を伝えたい相手は米子の同僚だった彼女。どんなおかしな発見も、彼女は『面白い』と声高らかに大笑いしながら受け取ってくれる。
『あなたは、ソールメイトなの』と私が心から弱った時を見過ごさず、飛行機に乗って駆け付けてくれるイギリス人の友人。今の私があるのも彼女のおかげ。母親になって笑えなくなって私に、ママが笑えなかったらいずれ子供も笑えなくなるから、先ずは私が笑える場所までいかなくちゃ、と大きなムーブメントを後押ししてくれた人。
大学で出会った同志。年齢は私より下なのに、勉強の仕方、部屋の整頓の仕方、彼氏とのかかわり方に至るまで、良い影響を与え続けてくれた。ただいまフランス在中だが、3年ごと移動しながら各国でグローバルに活躍している。国際結婚をした彼女。私自身のダメなとこ、弱い部分を認めたうえで、いつも褒めながら、私らしさを取り戻してくれる人。
距離はあまり関係ない。大人になってしまえば、べたべたした関係はどちらにしても続けられなくなる。なぜなら、子供の時は、学生が専門職のようなものだが、大人になるにつれて、一つの役割では済まなくなるから、、、、。
母親
仕事人
妻
PTA等のメンバー
地域活動
自分が望まなくても、役割が多くなったという事はそれだけ人間力がUPして利他の精神で生きる場所が与えられていることになる。
でも、役割が増えれば増えるほど、迷いや葛藤も種類豊富になる。その時に、戻る場所は友達のところ。今の時代、ネットさえ繋がっていればどこにいたって気持ちは共有できる。
多分、今の娘の年齢だとべったりとした友人関係にとてつもないエネルギーを費やし、一喜一憂しているのだろう。が、私がそうだったように、いつしか気づくときがくるだろう。真の友は、距離を超え、毎日会話を重ねなくても、時空を超え深い部分でつながり続けていく安心した関係になるということを!
今日は、そういった大切な出会いに心から感謝したい気持ちにあるれている。友達でいてくれたことにありがとうと連絡する日となるだろう。