子供の時、母の運転する車におんぶひもで抱っこされ、お客様の家に連れていかれたことを思い出す。母は、決まって『ミネソタのたまご売り』という、意味不明な歌を歌っていた。
♬ココココ コケッコ 私はミネソタのたまご売り 町中で一番の人気者♪
今聞いても変な歌、
お客様のおうちにつくと、車の中でひとり待つこととなる。この時間の記憶として残っているのは、そのおうちの人たちが、お菓子やバナナを持ってきてくれて若干 嬉しかったような、でもかなりの場合、半べそだった気がする。
母は、相変わらずミネソタのたまご売りを歌い、私を背中にくくりつけ仕事ばかりしていた。
とにかく、私の小さな母は働いてばかりいた。だから、そんな母を普通のお母さんとは違った人だと認識した時から嫌いになった。
それは、子供の母親の愛情を欲するがあまり感じたことであり、母が私に手をかけなかったのとは違う。ただ単に、家の中で過ごす時間の少なさが子供なりに他の家と比べ、うらやましかったのだと思う。
また、母の時代は、仕事に家庭の事に、姑さんのお世話に、小姑さんの意見にとにかく余裕なんかなかったと思う。
まして、葬儀の仕事は、24時間 365日営業 こんな風に会社組織になる前は、夜の弱い父に代わり、母はとにかくフル回転で仕事に集中していた。
忙しい中での母が、私たち娘に平等に与えてくれたこと。知ること、学ぶことに対するバックアップである。
知ることとは、お勉強面での塾、習い事でもありとあらゆるものに手を出したし、経験という名の学びの場へも積極的に誘導し促してくれた。
仕事という場で原資を稼ぎ、私たちへの未来投資を積極的に行ってくれた。
振り返りながら、私の構成要素の中で母から与えられたものがいかに大きいかを感じずにはいられない。
そもそも母は、なぜ葬儀屋なんかにお嫁にきたのか?
つづく・・・